大通花壇史(その2)
大通花壇の花壇を語る時に、もう一人の人物の活躍が欠かせません。小川の整備のあと再び雑草畑となった大通に対して、大正4年に「どうすれば市民や旅行者に喜ばれるものになるか」と当時の札幌区長に花壇造成の案を持ちかけたのが、札幌洋翠園の戸部佶(ただし)でした。それに対して、「趣旨には賛成するが、造成費用も管理費用もなく、土地も所有していないので、賛成しかねる」とのつれない話だったそうです。
しかし戸部は、土地の所有者である道庁拓殖部と、管理をしていた警察部に対して粘り強く交渉し、「花壇費用と管理費用のすべてを自費でまかなう」ことを条件に使用の許可を得ています。早速東北帝大農科大学の園芸の教授であった星野勇三と前川徳次郎に相談し、花壇設計や草花選定のアドバイスを得ることができました。
こうして、西3、4丁目に芝生の造成と花壇を設置し、アリッサム、ロベリア、ペチュニア、フロックス、ジニア、アスター、マリーゴールドなど百余種の草花を植えたのです。次々と美しい花が咲いてくるにつれ、市民は種子を分けてほしいと希望者が殺到し、今の秋田銀行札幌支店の前に販売所を建てて、種子や苗の販売まで行ったようです。
その後三年間は戸部が花壇を維持したものの、さすがに維持できなくなり、札幌区の直営とすることになりました。ちょうど大正7年には、中島公園や駅前通などで開道50周年記念北海道博覧会が実施されました。それに合わせて駅前から中島公園まで電車が走り始めていますが、博覧会見物に訪れたたくさんの人の目に、大通の美しい花壇はどのように写ったものでしょうか?
監修:(有)緑花計画 笠康三郎
(参考:「さっぽろ・大通」札幌の歴史を楽しむ会、新北海道教育新報社、1981)