大通花壇史(その3)
第二次大戦中には、物資不足から金属回収が図られ、大通にあった黒田、永山、岩村の銅像は、昭和18年7月に赤たすきを掛けられて身代わり応召となりました。戦中から戦後にかけては、大通は食糧増産のため芋畑と化し、ゴミ捨て場もあちこちにできたため荒廃が進みました。
終戦後すぐに大通周辺の拓銀など主要施設を接収した進駐軍は、公園内に体育施設を設けて余暇を楽しむ場にしましたが、体育団体も運動施設づくりに精を出し、バレーコート、テニスコート、バスケットボールコート、野球場などが次々と作られました。
やがて進駐軍は真駒内のキャンプクロフォードに移転していきましたが、荒廃した大通の再建を考えていた北海タイムス社(現在の北海道新聞社)は、昭和25年に植物園の石田文三郎氏に相談を持ちかけ、翌年札幌採種園の望月正門氏などと共にあちこちから材料をかき集め、3丁目に小さな花壇を復活させました。それを契機に札幌市でも花壇の復旧にあたり、昭和27年には15社が参加して、ボランティアによる花壇を作り始めました。そのメンバーを見ると、造園会社、園芸店、切り花店、生産農園と花に関わる様々な会社が集まっており、現在とはかなり様子が異なっていることに気付きます。(現在も続く花壇推進組合は昭和29年に結成されています)
そのような大通花壇は、以来60年以上造成を続けてきているということになりますが、世相と共に様々なスタイルが展開されてきているのです。
監修:(有)緑花計画 笠康三郎
(参考:「さっぽろ・大通」札幌の歴史を楽しむ会、新北海道教育新報社、1981)
(参考:さっぽろ文庫「大通公園」札幌市教育委員会、北海道新聞社、1985)
(参考:「大通公園花壇50周年記念誌」札幌市花壇推進組合、2001)
(参考:さっぽろ文庫「大通公園」札幌市教育委員会、北海道新聞社、1985)
(参考:「大通公園花壇50周年記念誌」札幌市花壇推進組合、2001)