札幌の町の誕生
札幌の町が産声を上げるのは、開拓使が主席判官島義勇(よしたけ)に本府建設を命じた1869年(明治2年)のことでした。それまでの札幌には、幕府の出先であった石狩役所の命を受けて、現在の豊平橋の近くで渡し守をやっていた志村鉄一と吉田茂八の二家族7名が、和人として定住していただけだったのです。
そのような場所に、北海道の首府となるべき町の建設を目指したのが、肥前出身の島だったのですが、彼の頭には京の街割りのような東洋的な本府建設構想があったようです。彼の残した『石狩国本府指図』を見ると、本陣の前に幅十二間の大路が南に延び、その両側には役所や官舎が立ち並んでいます。その先には更に幅四十二間の大路があり、土塁が二列設けられ、その南に町屋が並んでいます。この大路こそが後の大通になるのです。
つまり、官庁街と町屋の間には、当初から火防線を意識して設定していたことが分かります。島はこの構想を元に、明治2年の11月から冬の間に、これらの建物を苦労の上に建てていくのですが、持ち込んだ資金を使い果たしてしまい、事情を把握していない東久世長官から、無駄遣いをしていると罷免されてしまうのです。
しかし、原野の中に北海道の首府を建設するという雄大な構想を打ち立てたことは、長く札幌市民の心に残っており、今でも「判官さま」と言えば島のことを指し、市役所ロビーに立派な像が建てられている訳です。
監修:(有)緑花計画 笠康三郎
(参考:「札幌百年のあゆみ」札幌市、1970)
(参考:[石狩国本府指図]北海道デジタル図鑑、北海道、2005)
http://www.hokkaido-jin.jp/zukan/legal/index.html
請求記号:軸物116 北方資料データベースレコードID:0D010660000000
(参考:[石狩国本府指図]北海道デジタル図鑑、北海道、2005)
http://www.hokkaido-jin.jp/zukan/legal/index.html
請求記号:軸物116 北方資料データベースレコードID:0D010660000000