火防線から後志通、そして大通
島が罷免されたあと、権監事西村貞陽が再経営の計画を建議し、本府の広さを一里四方にする、周辺に衛星村落を設置する、などの方向性を定めています。1871年(明治4年)には岩村通俊が札幌に乗り込み、いよいよ街割りの測量を進めて行きました。
こうしてできあがった街並みは、島の指図書とは少し異なっており、南北に通る創成川が軸線になり、中央を東西に貫通する幅の広い火防線によって、街が南北に分かれていることが分かります。すなわち北の官地、南の民地、それを隔てるのが後に大通になる火防線だったのです。幅十二間の通りはきれいに格子状に設定され、現在の町の骨格がこの時に設定されていることがよく分かります。
この時既に、北に偕楽園が公園に指定され、南の中島、西の円山、東の苗穂に公園の適地を選定する構想を持っていたといわれます。岩村はこの年に円山の現在地に札幌神社を創建して島が奉じてきた開拓三神を安置し、また南4条あたりに歓楽地を指定しています。この他にも、大友堀を北に掘り進めて昔の琴似川に連結させ、北からの舟運の便を図っています。まさにこの年が現在の札幌に発展する起源になっているといえるでしょう。
翌1872年(明治5年)には、道内の国郡名をとって道路の名前にしています。火防線は後志通、北一条は浜益通、南一条は渡島通となりましたが、あまりに煩雑になったため1881年(明治14年)には廃止されて現在の条丁目に変更され、後志通から大通に正式に改称されたのです。
監修:(有)緑花計画 笠康三郎
(参考:「札幌百年のあゆみ」札幌市史編纂委員会、札幌市、1970)
(参考:「札幌歴史地図(明治編)」札幌市教育委員会編、北海道新聞社、1978)
(参考:「札幌歴史地図(明治編)」札幌市教育委員会編、北海道新聞社、1978)